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実写映画『デビルマン』がつまらない!評判レビューを徹底解説【感想・ネタバレ考察】

毎朝、満員電車に揺られて1時間。

窓の外を流れる東京の景色を見ながら、ふと思うことがあります。

 

「今日も平和だなあ」って。

 

でも、そんな平和な日常の中で、時々ふっと脳裏をよぎる影があるんです。

あれは今から20年以上前、私がまだ独身で、東京のワンルームマンションで自由気ままに暮らしていた頃の記憶。

 

そう、

2004年に公開された実写映画『デビルマン』

のことです。

  • 「伝説のクソ映画」って聞くけど、具体的に何がそんなに酷いの?
  • 見てみたいけど、貴重な2時間をドブに捨てるのは怖い…
  • 話のネタにしたいから、ネタバレ込みで全部教えてほしい!

そんなふうに思っていませんか?

分かります、その気持ち。

ネットで検索すると

「見るな危険」

「精神修行」

なんて言葉ばかり出てきますからね。

 

でも、人間って「見るな」と言われると見たくなっちゃう生き物じゃないですか。

 

この記事では、当時映画館でリアルタイムにその「事故」を目撃し、その後も数多のB級映画を乗り越えてきた映画ファンの私が、実写版『デビルマン』の全貌を徹底的に解剖します。

 

なぜ10億円もの大金が消えたのか?

なぜプロたちが集まってあんな作品が生まれたのか?

そして、なぜ私たちは今もなお、この映画を語り継いでしまうのか?

 

この記事を読めば、あなたは実写版『デビルマン』の全て(ストーリーの崩壊から裏事情まで)を理解でき、実際に映画を見るリスクを冒すことなく、明日誰かに

「ねえ、あの伝説知ってる?」

とドヤ顔で話せるようになります。

 

これは単なる映画レビューではありません。

エンターテインメントの歴史に残る「巨大プロジェクト崩壊」のケーススタディであり、現代を生きる私たちへの教訓です。

 

さあ、深呼吸をしてください。

地獄の釜の蓋を、一緒に開けに行きましょう。

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第1章2004年という「熱狂」と「過信」の時代背景

まずは時計の針を少し巻き戻してみましょう。

今は2026年ですが、物語の始まりは2004年。

まだスマホもSNSも今ほど普及していない、ガラケー全盛期の時代です。

バブルの残滓とVFXの黎明期

当時の日本映画界は、ある種のバブルの中にありました。

 

ハリウッドでは『マトリックス』や『ロード・オブ・ザ・リング』が映像革命を起こしており、日本でも

「VFX(視覚効果)技術を使えば、今まで不可能だった漫画やアニメの実写化ができる!」

という期待感が最高潮に達していたんです。

 

2004年だけでも、

『CASSHERN』

『キューティーハニー』

『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』

などが公開されています。

「日本のコンテンツは世界で戦える」

という、ある種のナショナリズムと期待感が渦巻いていました。

 

そんな中で東映が放ったのが、製作費10億円を投じた『デビルマン』プロジェクトです。

 

10億円ですよ?

主婦感覚で言うと、もう想像もつかない金額ですよね。

スーパーの特売卵が何パック買えるのか計算するのも馬鹿らしくなる数字です。

 

当時の邦画としては破格の予算。

東映京都撮影所の特撮技術と、東映アニメーションのデジタル技術を融合させた新ブランド「T-Visual」を掲げ、まさに「必勝の布陣」で臨んだはずでした。

「計画の錯誤」という落とし穴

しかし、ここに最初の落とし穴がありました。

行動経済学でいう「計画の錯誤(Planning Fallacy)」です。

 

人間は、将来の計画を立てるとき、どうしても楽観的になってしまう生き物。

「技術があればなんとかなる」

「予算があれば傑作ができる」

という根拠のない自信が、プロジェクト全体を覆っていたのではないでしょうか。

 

当初5月公開予定だったものが、10月に延期されたこと。

これはもう、現場で「何かが起きている」ことを告げるサイレンでした。

 

でも、走り出した巨大タンカーは簡単には止まりません。

10億円という巨大なサンクコスト(埋没費用)が、「引き返す」という選択肢を奪ってしまったのです。

キャスティングに見る「大人の事情」

そして、この映画を語る上で避けて通れないのがキャスティングです。

 

主演の不動明役に伊崎央登、飛鳥了役に伊崎右典。

当時、人気絶頂だった双子のダンスユニット「FLAME」のメンバーです。

 

監督は

「善と悪、光と影を表現するために双子を起用した」

と語りましたが、原作において明と了は双子ではありません。

そもそも顔が似ている設定でもありません。

 

さらに、ボブ・サップ、小錦、小林幸子といった、当時テレビで話題だったタレントを大量投入。

これは明らかに「映画の質」よりも「ワイドショーでの露出」を優先した戦略です。

 

「人気者を出せば客が入るだろう」という「ハロー効果」への過度な期待。

でも、映画ファンは敏感です。

「あ、これ地雷だ」

って、ポスターを見た瞬間に察知しちゃうんですよね。

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第2章【実況】脚本という名の「迷宮」物語はこうして崩壊した

映画にとって脚本は骨格です。

骨が折れていては、どんなに立派な筋肉(CG)や皮膚(俳優)をつけても、まともに歩くことはできません。

 

ここからは、ネタバレ全開でストーリーがいかに崩壊していったか、私のツッコミと共に追体験していただきましょう。

116分に圧縮された黙示録

原作漫画『デビルマン』を読んだことはありますか?

全5巻の中に、神と悪魔の対立、人間の業、愛と憎しみ、そして世界の崩壊までが描かれた、まさに「黙示録」です。

これをわずか2時間弱の映画に収めること自体が、そもそも無謀な挑戦でした。

 

映画版の脚本は、原作のエピソードを切り刻み、無理やりつなぎ合わせたパッチワークのようになってしまいました。

因果関係が無視され、シーンとシーンの間には深淵のような断絶があります。

 

「なぜそうなったの?」

「今、どこにいるの?」

観客は常に迷子です。

日常の延長のような「サバト」

原作における最大の見せ場の一つが、主人公・不動明が悪魔と合体する「サバト(黒ミサ)」のシーンです。

 

ドラッグ、暴力、エロティシズムが渦巻く狂乱の中で、理性を捨てて本能を解放した人間だけが悪魔を宿すことができる――

この設定こそが、デビルマンという存在の悲劇性と業を象徴していました。

明は「人間を捨てる」覚悟をして、あの場所へ行ったのです。

 

ところが映画では、どうでしょう。

 

親友・飛鳥了の家の地下室で、なんだかよくわからないアメーバ状の光に取り憑かれておしまい。

まるで、近所の公園で変な虫に刺されたくらいの軽さです。

「あ、なんか入ってきたわ」くらいの感覚。

 

ここには「痛み」がありません。

代償を払っていないんです。

だから、その後の明の苦悩にも重みが生まれない。

ボタンの掛け違いは、最初の最初から始まっていました。

シレーヌという「保有効果」の無駄遣い

原作ファンに大人気の妖鳥シレーヌ。

冨永愛さんが演じた彼女のビジュアルは、確かに美しかったです。

モデル出身ならではのスタイルで、そこだけ切り取れば絵になります。

 

でも、映画のストーリーにおいて、彼女は完全に「邪魔者」でした。

 

突然現れて、明と戦い、唐突に死ぬ。

その間、物語の本筋は完全にストップします。

「あれ? 今なんの時間?」

と時計を見たくなるレベル。

 

製作陣としては

「人気キャラだから出さなきゃ損」

「せっかく冨永愛をキャスティングできたんだから」

という心理(保有効果)が働いたのでしょう。

 

でも、断捨離ができない人の部屋みたいに、必要なものと不要なものが散乱している状態では、物語のリズムは生まれません。

彼女のエピソードを入れるくらいなら、もっと明と美樹の関係を描くべきでした。

トラウマ級の改悪:ジンメン編

そして、私が個人的に一番許せないのが、ジンメン編の改変です。

 

原作では、明の近所に住む幼女・サッちゃんがジンメンの甲羅に取り込まれ、「明くん、痛いよ」と泣き叫ぶ。

明は血の涙を流しながら、サッちゃんごとジンメンを倒す。

これがデビルマンの背負う「業」であり、読者の心に深く刻まれるトラウマシーンです。

 

映画ではどうなったか。

 

甲羅に取り込まれたのが

「明をいじめていたジャージ姿の不良(しかも顔が濃い)」

に変更されていました。

 

……誰が共感できるんですか、これ。

 

いじめっ子が「助けてくれ」と言っても、観客の心は冷え切ったまま。

「まあ、自業自得じゃない?」

なんて思ってしまう。

これでは、明の苦悩も、戦いの悲壮感も、すべてが台無しです。

 

リスクを回避し、残酷な描写を避けた結果、物語の魂まで抜き取ってしまった典型例と言えるでしょう。

「コンプライアンス」という言葉がちらつく改変ですが、それにしたって酷すぎます。

クライマックスの虚無

物語の終盤、世界は崩壊に向かいます。

人間同士が疑心暗鬼になり、魔女狩りを始める。この「人間こそが悪魔」というテーマこそがデビルマンの真骨頂です。

 

しかし映画では、この部分の描写が非常に薄っぺらい。

暴徒化した人々がヒロイン・美樹を襲うシーンも、悲劇性が足りず、ただただ不快なだけ。

 

そしてラストバトル。

デビルマンとサタン(飛鳥了)が戦うわけですが、これがまた盛り上がらない。

採石場のような殺風景な場所で、ビームを撃ち合うだけ。

 

「え、これで終わり?」

 

エンドロールが流れた時の劇場の空気、今でも忘れられません。

誰も席を立たず、ただ呆然としていました。

怒りすら湧かない、完全な虚無。

ある意味、貴重な体験でしたね。

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第3章:演技という名の「放送事故」棒読みが生んだ伝説

さて、骨格の話の次は、肉体の話。

つまりキャストの演技についてです。

ここにもまた、2004年という時代の空気が色濃く反映されています。

FLAME・伊崎兄弟の悲劇

主演の伊崎兄弟。

彼らを責めるのは酷というものです。

演技経験がほとんどない彼らに、あの複雑怪奇な『デビルマン』の主役を背負わせた大人たちの判断ミスなのですから。

 

でも、事実として彼らの演技は「伝説」となりました。

 

特に有名なのが、明が悪魔と合体した直後のセリフです。

「あー、俺デーモンになっちゃったよー」

自身の体が異形のものとなり、人間社会から弾き出される絶望的な状況での言葉とは到底思えない、あまりに脱力した棒読み。

「あー、雨降ってきちゃったよー」

くらいのテンションです。

 

この瞬間、スクリーンの前の観客は恐怖ではなく、こらえきれない笑いに襲われました。

シリアスなシーンであればあるほど、そのギャップが笑いを誘う。

これはもう、狙ってできることではありません。

ミーム化した怪演「ハッピーバースデー、デビルマン」

そして、ネット上で永遠に語り継がれているのが、飛鳥了によるこのセリフ。

「ハッピーバースデー、デビルマン」

状況を説明しましょう。

世界中で悪魔が出現し、パニックになっている。親友が行方不明になり、明は悪魔の力に目覚めてしまった。

そんな絶望的な状況下で、牧村家の人々はなぜかケーキを囲んで明の誕生日を祝っています。(この時点でおかしいんですが)

 

そこに現れた飛鳥了が、一切の感情を込めずに言い放つんです。

 

「ハッピーバースデー、デビルマン」

 

これは、シュールレアリスムの絵画でしょうか?

文脈の異常さと、演技のフラットさが生み出す、奇跡的な違和感。

 

本来なら

「お前が悪魔になったことを祝ってやるよ」

という皮肉や狂気を含んだセリフのはずです。

でも、ただただ台本を読んでいるようにしか聞こえない。

 

心理学でいう「良性の違反(Benign Violation)」理論に近いかもしれません。

脅威(違反)があるけれど、それが現実離れしすぎていて無害(良性)だと判断されたとき、人は笑いを感じる。

意図せぬ形で、この映画は高度なギャグ映画として完成されてしまったのです。

ボブ・サップという「時代」の封印

そして、忘れてはならないのがボブ・サップの起用です。

当時、K-1やバラエティ番組で見ない日はないほどの人気者でした。

野獣のような見た目で、実は知的で優しいというギャップが受けていましたね。

 

彼が「ワールドニュースキャスター」役で登場し、片言の日本語と英語で絶叫します。

 

「人間が、悪魔だー!」

 

これを見た瞬間、観客は「映画の世界」から「現実のテレビ番組」へと引き戻されます。

「あ、ボブ・サップだ」

「今、流行ってるもんね」

没入感なんてあったものではありません。

 

映画というのは、観客をその世界に浸らせる魔法のはずです。

でも、このキャスティングはその魔法を自ら解いてしまっている。

 

これは、映画作品としてのクオリティよりも、「話題作り」や「テレビ局とのタイアップ」を優先した結果でしょう。

作品の中に、当時の芸能界のしがらみや大人の事情が透けて見える。

それが、ファンにとっては一番の裏切りに感じられたのです。

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第4章:T-Visualの正体と演出の迷宮なぜそこを選んだ?

10億円をかけた映像美。

それが売りだったはずです。

しかし、スクリーンに映し出されたのは、なんとも言えない「チープさ」でした。

「PS2レベル」と揶揄されたCG

デビルマンやデーモンのCGは、質感、重量感、動きのすべてにおいてリアリティを欠いていました。

特に明るい場所での戦闘シーンでは、CGキャラクターが背景から浮いてしまい、まるで一昔前のゲーム映像(プレイステーション2初期レベル)を見ているかのような錯覚に陥ります。

 

ハリウッドでは同年に『スパイダーマン2』が公開されており、VFX技術の差は歴然としていました。

 

予算の限界があったとはいえ、「特撮とアニメの融合」というコンセプトが、単に

「実写映像にアニメ的なCGを雑に合成しただけ」

の結果に終わったことは否めません。

「自分たちの技術を過信する」というダニング=クルーガー効果が、ここでも発揮されていたのかもしれません。

ダビデの星とデリカシーの欠如

那須博之監督の演出センスも、本作のシリアスな世界観と致命的に食い違っていました。

 

例えば、暴徒化した人間を取り締まる組織「デーモン特捜隊」。

彼らの制服や車両には、なぜか「ダビデの星(六芒星)」が描かれています。

 

これはユダヤ教のシンボルであり、ホロコーストなどの歴史的背景を持つ重い記号です。

それを、物語上の文脈とは全く無関係に、単に

「かっこいいマークだから」

「悪魔祓いっぽいから」

という理由で採用してしまった。

 

これはもう、無知というよりも、作品に対するリスペクトと配慮の欠如です。

国際的な感覚で見れば、炎上どころでは済まない大問題になりかねない案件でした。

聖地?サンストリート亀戸

そして、映画の中で頻繁に登場するのが、東京の下町にあるショッピングモール(今はなきサンストリート亀戸)です。

世界中で悪魔が暴れているという設定なのに、戦いの舞台はずっとそこ。

 

「また亀戸?」

「世界の危機なのに、規模がローカルすぎない?」

 

観客は心の中でツッコミを入れ続けます。

予算の都合でロケ地が限られていたのかもしれませんが、同じ場所ばかり映ることで、スケール感が矮小化され、人類滅亡というテーマが茶番劇へと変わってしまいました。

日本映画史上最もダサい銃撃戦

中盤、明とミーコがデーモン特捜隊と戦うシーンがあります。

ここで展開されるガンアクションは、悪い意味で語り草となっています。

 

ただ棒立ちで銃を撃ちまくる隊員たち。

避ける気配もなく突っ込むデビルマン。

カット割りは単調で、スピード感も緊迫感も皆無。

スローモーションを多用するものの、それがかえって動きの緩慢さを強調してしまっています。

 

「カッコいいアクション」

を撮りたかったであろう意図とは裏腹に、日曜朝の子供向け番組以下の映像になってしまいました。

いえ、日曜朝のヒーロー番組の方が、スタントマンもアクション監督もしっかりしているので、もっと迫力がありますね。

失礼しました。

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第5章:なぜ誰も止められなかったのか組織の力学と集団浅慮

これほどまでに問題だらけの作品が、なぜ修正されることなく世に出てしまったのでしょうか。

撮影現場には何百人ものスタッフがいたはずです。

 

「監督、これ変じゃないですか?」

「脚本、矛盾してませんか?」

そう声を上げる人はいなかったのでしょうか。

製作委員会方式の「無責任体制」

ここに、日本映画界特有の「製作委員会方式」の弊害が見え隠れします。

多くの企業(テレビ局、出版社、玩具メーカーなど)が出資し、リスクを分散するシステム。

 

しかし、それは同時に「責任の分散」も招きます。

「誰が最終決定権を持っているのかわからない」

「みんながイエスと言っているから、自分もイエスと言うしかない」

 

社会心理学でいう「集団浅慮(グループシンク)」です。

異論を唱えることが空気的に許されず、全員が破滅に向かって行進してしまう。

 

「公開日は決まっている」

「キャストのスケジュールは押さえている」

「予算は使ってしまった(サンクコスト)」

 

そんな外的なプレッシャーの中で、クリエイティブの質は二の次、三の次にされていったのでしょう。

 

各出資社がそれぞれの利益(タレントの露出、玩具の販促、主題歌のタイアップなど)を主張し、監督やプロデューサーがそれを調整することに追われる。

その結果、作品としての純度や一貫性が犠牲になります。

「双子のアイドルを使いたい」

「話題のボブ・サップを出したい」

といった要望が、脚本や演出の整合性よりも優先された結果が、この映画の姿なのです。

那須監督の「遺作」としての悲劇

監督の那須博之氏は、『ビー・バップ・ハイスクール』などのヤンキー映画やコメディで手腕を発揮した名監督でした。

彼の持ち味は、過剰なエネルギーと荒削りな勢いにあります。

 

しかし、『デビルマン』が求めていたのは、繊細な心理描写、ダークな美学、そしてSF的な構成力でした。

明らかに監督の適性と作品の性質がミスマッチでした。

 

さらに、監督は当時すでに病魔に侵されており、本作が遺作となりました(公開の翌年に逝去)。

心身ともに万全でない状態で、この巨大で歪なプロジェクトをコントロールすることは、あまりに過酷だったでしょう。

 

監督一人の責任に帰するには、状況があまりに不運でした。

彼自身は、最後まで諦めずに「面白い映画」を作ろうとしていたはずです。

ただ、その情熱のベクトルと、作品が求める方向性が、悲しいほどにズレてしまっていたのです。

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第6章:ネット社会とデビルマン伝説への昇華

映画が公開された直後、インターネット上ではある種の「祭り」が起きました。

当時はブログ文化の全盛期。

2ちゃんねるなどの掲示板も活発でした。

「2点」の衝撃と炎上

映画評論家の前田有一氏は、自身のサイト「超映画批評」で本作に100点満点中「2点」を付け、

「ポスターだけはいい映画」

と酷評しました。

このレビューはネット上で拡散され、本作の評価を決定づけるものとなりました。

また、ビートたけし(北野武)氏が

「映画史に残る四大おバカ映画」

に認定したことも、燃料投下となりました。

 

人々は怒りながら、同時に楽しんでいました。

「どれだけ酷いのか見てみたい」

「俺も被害者の会に入りたい」

 

そんな「怖いもの見たさ」が連鎖し、一種の社会現象となっていきました。

これは「バンドワゴン効果」の変種です。

「みんなが叩いているから、自分も叩きに行く」。

でも、そこには陰湿なイジメのような空気とは少し違う、奇妙な連帯感がありました。

ニコ生上映会という「供養」

その連帯感が極まったのが、2020年に行われたニコニコ生放送での上映会です。

約9万人が来場し、画面がコメント(弾幕)で埋め尽くされました。

 

「ハッピーバースデー、デビルマン」のシーンでは、画面が見えなくなるほどの「ハッピーバースデー」弾幕が。

 

もはや映画の内容なんてどうでもいい。

みんなでツッコミを入れ、共有する時間そのものがエンターテインメントになっている。

作品の質は最低ですが、コミュニケーションツールとしての価値は最高レベル――

皮肉にも、そんな独自の地位を確立してしまったのです。

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第7章:比較文化論IFの可能性と後継者たち

『デビルマン』の失敗から学ぶことは多いですが、それをより鮮明にするために、他の作品と比較してみましょう。

『DEVILMAN crybaby』が証明した「正解」

2018年、湯浅政明監督によるアニメ『DEVILMAN crybaby』がNetflixで配信され、世界中で絶賛されました。

 

この作品は、原作の設定を現代(スマホやSNSがある社会)に大胆にアレンジしつつ、セックス、バイオレンス、そして愛と憎悪という原作の核心的テーマを逃げずに描き切りました。

ラストシーンの美しさと虚無感は、原作ファンも唸らせる出来栄えでした。

 

『crybaby』の成功は、実写版の失敗が「原作が古すぎたから」でも「映像化不可能だったから」でもなく、単に「作り手の覚悟と解釈が足りなかったから」であることを残酷なまでに証明しました。

湯浅監督は、原作の「形」ではなく「魂」を映像化したのです。

一方、実写版は表面的なストーリーをなぞることに終始し、魂を取りこぼしてしまいました。

令和のデビルマン?『大怪獣のあとしまつ』

2022年、映画『大怪獣のあとしまつ』が公開され酷評された際、SNSでは「令和のデビルマン」というワードがトレンド入りしました。

『デビルマン』は今や、クソ映画の絶対的な基準器(ベンチマーク)となっています。

 

「あれよりはマシ」

「いや、あれに匹敵する」

そんな議論が交わされるたびに、デビルマンの名前が挙がるのです。

 

しかし、多くの映画ファンはこう擁護(?)しました。

「デビルマンを舐めるな。あそこまでの域には達していない」

 

『デビルマン』の崩壊ぶりは、狙って作れるものではありません。

数多の不運と誤判断が奇跡的なバランスで積み重なって生まれた、再現不可能な「事故」なのです。

狙ってスベった映画と、真剣に作って崩壊した映画。

その間には越えられない壁があります。

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結論それは「忘却」に抗うための物語

2026年の今、改めて『デビルマン』を見返すと、不思議な感情が湧いてきます。

もちろん、映画としては破綻しています。

つまらないです。

擁護の余地はありません。

でも、そこには2004年という時代の熱量、混乱、そして作り手たちの苦闘の跡が、生々しく刻まれています。

 

AIが完璧な脚本を書き、完璧な映像を作れるようになったこの時代。

人間の不完全さ、愚かさ、そして集団心理の恐ろしさが詰まったこの映画は、逆説的に「人間臭い」遺物として、博物館に飾られるべき価値を持っているのかもしれません。

この記事のまとめ

  • 脚本の崩壊
    原作の魂を抜き取り、継ぎ接ぎにした結果、意味不明な物語に。
  • キャスティングのミス
    話題性優先で演技未経験者を起用し、棒読みの伝説が誕生。
  • 演出の迷走
    チープなCG、場違いな小道具、緊張感のないアクション。
  • 組織の欠陥
    製作委員会方式の無責任体制と、監督の適性不一致。
  • ネット文化との融合
    酷評がネタ化し、ミームとして永遠の命を得た。

もし、あなたが人生で大きな失敗をしたとき。

チームでのプロジェクトが上手くいかないとき。

あるいは、単に笑って嫌なことを忘れたいとき。

 

この映画を思い出してください。

 

「上には上が(下には下が?)いる」

そう思えば、少しだけ勇気が湧いてきませんか?

 

実写映画『デビルマン』。

それは、私たちに「失敗の許容」と「完璧への懐疑」を教えてくれる、愛すべきモンスターなのです。

 

さて、そろそろ最寄りの駅に着きます。

家に帰ったら、息子と一緒に特撮ヒーロー番組でも見ようかな。

今のヒーローたちは演技もCGも凄いですからね。

「ハッピーバースデー」なんて言いながら、コンビニでケーキでも買って帰ろうかしら。

特に誰の誕生日でもないけれど、平和な日常を祝うのも悪くないでしょ?

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