領収書の山に、夫の離婚届と娘の不満まで重なる。『エブエブ』のエヴリンは、宇宙を救う前から手いっぱいです。机の上だけでも、かなりの難敵がいますよね。
ダニエルズ監督の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、2022年の映画です。
※結末までのネタバレあり。
黒いベーグル、ホットドッグの指、会話する石。奇妙な世界が次々に出てくるのに、気になるのは、母と娘がうまく話せないことなんです。ジョブ・トゥパキは、なぜ母を探し続けたのでしょうか。娘の苦しさと母の後悔が、あの騒々しい冒険を動かしています。
領収書の山から始まる、エヴリン一家のすれ違い
作品の勢いと家族の顔ぶれが分かる、A24の公式予告です。
エヴリンは夫ウェイモンドとアメリカでコインランドリーを営み、税務監査の対応に追われています。中国から来た父ゴンゴンを迎え、春節のパーティーを準備する仕事まで重なっていました。
そこへ娘ジョイが恋人ベッキーを連れてきます。エヴリンは父の反応を恐れ、ベッキーをジョイの「友達」として紹介しました。ジョイにとっては、好きな人との関係を母に隠された瞬間です。
エヴリン自身も、若いころに父の反対を押し切ってウェイモンドとアメリカへ渡っています。父に認められたい気持ちを抱えたまま、今度は自分が娘を傷つけてしまう。家族って、昔のけんかを別の相手と繰り返してしまうことがありますよね。
一方、ウェイモンドは離婚届を用意していました。その深刻さに気づく余裕もないエヴリンは、夫と父を連れて税務署へ向かいます。担当官ディアドラとの面談が、一家の日常と無数の宇宙をつなぐきっかけになりました。
バースジャンプで強くなるほど、母娘の傷が見えてくる

アルファ・ウェイモンドが借りるのは、目の前の夫の体
税務署で、ウェイモンドの態度が急に変わります。彼の体を使って話しているのは、別の宇宙から来たアルファ・ウェイモンドです。
彼が説明するのは、選択のたびに人生が枝分かれし、無数の宇宙が存在する世界です。この多元宇宙をマルチバースと呼びます。アルファ宇宙では、その枝分かれした自分へ意識をつなぐ技術が発達していました。
別の人生を生きる自分の記憶や技を借りる方法が、バースジャンプです。接続には、普段ならしない奇妙な行動が求められます。靴を左右逆に履く、リップクリームを食べるなど、初めて聞けば止めたくなる方法ばかり。カンフー習得の前に、おなかが心配です。
エヴリンは清掃用の部屋へ行った別の自分とつながり、そこで襲いかかるディアドラを経験します。面談へ意識を戻したあとも危険を感じ、近づいてきた担当官を殴ってしまいました。警備員が駆けつけ、アルファ・ウェイモンドが格闘で応戦する騒ぎへ発展します。
いちばん不器用なエヴリンが選ばれた理由
アルファ・ウェイモンドが探していたのは、ジョブ・トゥパキという存在と戦えるエヴリンでした。彼は、目の前の彼女が多くの夢を実現できずにいることに、可能性を見いだします。
歌手や料理人になったエヴリン、ウェイモンドとの渡米を選ばず、武術を学んで映画スターになったエヴリン。別の宇宙には、さまざまな技を身につけた自分がいます。歩まなかった道が多い彼女ほど、その能力を借りられる余地も大きい、という見込みなんです。
エヴリンはディアドラへの愛を口にする奇妙な接続条件を満たし、武術を使う自分の力を得ます。それと同時に、夫と暮らさなかった人生の華やかさも知ってしまいました。戦うために借りた能力が、自分の暮らしへの後悔まで連れてくるのがつらいところです。
ジョブ・トゥパキは、母に限界を越えさせられたジョイ
ジョブ・トゥパキの正体は、アルファ宇宙のジョイです。その宇宙の母エヴリンは、優秀な娘にバースジャンプの訓練を続けさせ、耐えられる限界を越えさせました。
ジョイの意識はばらばらになり、あらゆる宇宙の人生を同時に経験するようになります。ジョブは現実を自在に変え、税務署の警備員たちを殺すほどの力を持っていました。その膨大な経験から、何をしても意味がないという考えに沈んでいます。
父の体に乗り移ったアルファ・ゴンゴンは、こちらの宇宙のジョイを殺すようエヴリンに迫ります。ジョイの体が、ジョブの接続先になっているためです。エヴリンは娘を守り、ジャンプを重ねてジョブと向き合う道を選びました。
その結果、アルファ側も彼女を危険視し、刺客を送り込みます。さらにジョブはアルファ宇宙のウェイモンドを殺害。頼っていた案内役を失い、限界まで能力を使ったエヴリンも倒れ、無数の人生を一度に経験する状態へ入っていきます。
ベーグルの目的は、ジョブ自身を消すこと

ジョブが作ったのは、あらゆるものを載せた「エブリシング・ベーグル」です。経験も考えも詰め込まれた黒い輪は、ブラックホールのように周囲を吸い込みます。アルファ側は、宇宙を壊す脅威として恐れていました。
ジョブは、自分と同じ途方もない経験を理解できるエヴリンを探し続けます。母なら、別の答えを示してくれるかもしれないと期待していました。
ジョブは、何通りもの人生を経験しても終われない疲れから、ベーグルで自分自身を消そうとしています。とんでもない力を持つ娘の中に、母へ助けを求める気持ちが残っているのが苦しいんですよね。
エヴリンも、周囲を傷つける側へ傾いてしまう
娘と同じ経験をするようになったエヴリンは、ジョブの虚しさに近づきます。どんな選択にも別の結果があるなら、今の暮らしを大切にする意味は何なのか。その迷いが、投げやりな行動へ変わりました。
税務署で戦っている宇宙ではウェイモンドを刺し、家へ戻って春節を迎える宇宙では店の窓を壊します。書類の提出期限も過ぎ、ディアドラは店を差し押さえるために警察を連れて来ました。エヴリンの絶望は、家族の住まいと商売まで壊しかけています。
石の場面で、母娘は世界の大きさに疲れている
生物が生まれる条件の整わなかった宇宙では、エヴリンとジョブは二つの石になっています。静かな景色の中で、会話は字幕として交わされました。あれだけ騒がしかった映画が、急に石二個です!
二人が話すのは、宇宙の大きさに比べて人間がどれほど小さいかということ。ジョブは母が自分の絶望を覆してくれるかもしれないと期待していましたが、このときのエヴリンも虚しさを感じています。
考察として、私はこの静けさに、考えること自体から休みたい娘の疲れを感じます。石なら何者かになろうと頑張らずに済む。その穏やかさには、もう何も選びたくないという怖さも重なります。
ウェイモンドの優しさで、エヴリンの戦い方が変わる
離婚届には、夫婦で話したい願いがあった
普段のウェイモンドは、エヴリンから頼りない夫として扱われています。それでも店での騒ぎを収めようとディアドラに話しかけ、税務書類を整えるための一週間の猶予を得ました。
彼が離婚届を用意したのも、夫婦の問題を話し合うきっかけが欲しかったからです。妻との関係に苦しみながら、修復を願っていました。あの紙一枚に気づいてほしかったというのが、なんとも切実なんですよね。
映画スターの宇宙で成功したウェイモンドも、優しさを自分の生き方として選んでいます。そこで彼は、別の人生ならエヴリンと洗濯や税金のことで忙しく暮らすことにも幸せを感じたはずだと話しました。洗濯と税金で、こんなに切ない愛情を語れるんですね。
そして税務署の戦いの中でも、傷ついたウェイモンドは争いをやめようと訴えます。世界がわからなくても、人に優しくする。その夫の姿を受け止めたエヴリンは、娘の虚しさから別の答えへ踏み出しました。
相手の苦しさを知り、攻撃する力を助ける力に変える
エヴリンは、別宇宙を見る力で相手の苦しみを知り、それを和らげながらジョブへ近づきます。首や背中に痛みを抱える刺客には、その痛みを取り除く施術をします。
ディアドラへの見方も変化しました。ホットドッグの指を持つ宇宙では、彼女とエヴリンは恋人同士です。店へ来たディアドラも、自分の離婚について話し、エヴリンのつらさに共感します。手ごわい担当官にも、愛する人を失って傷ついた人生がありました。
エヴリンはそんな彼女を慰めました。敵だと思った相手への共感が、ジョイとベッキーへの態度の変化に重なるのが印象的です。
結末で母娘が話すのは、離れたい気持ちと一緒にいたい願い

父にベッキーを紹介し直し、娘への態度を改める
店のパーティーで、エヴリンはゴンゴンにベッキーをジョイの恋人として紹介し直します。娘を大切にしてくれる相手として、二人の関係を認めました。母親が父の反応を恐れず、娘のそばに立った場面です。
別の宇宙では、アルファ・ゴンゴンがまだ救出を阻んでいます。エヴリンは、父が自分を見放したときと同じことを、自分の娘へ繰り返すつもりはないと伝えました。父の承認に縛られてきた母が、娘に対しては違う選択をします。
ただ、紹介し直した直後にジョイの気持ちが晴れるほど、傷は軽くありません。母といるとお互いにつらくなる、少し離れたほうがいい。ジョイは店を出て、駐車場でその気持ちを伝えます。
ジョイの希望を受け止め、今の娘への思いを伝える
エヴリンは娘の離れたい気持ちを受け入れます。同時に、ジョブは一人でベーグルへ進もうとしていました。家を離れようとする娘と、自分を消そうとする娘の切実さが、複数の宇宙で重なります。
そのあとエヴリンは、ほかにどんな人生があっても、今の娘と一緒にいたいという願いを伝えます。
ジョイは、一緒にいて幸せだと思えるのは、ほんのわずかな時間だと返しました。それに対しエヴリンは、そのわずかな時間を大切にすると応じます。長く傷つけ合った親子の会話が、小さな幸せを続ける約束へ変わるんです。
ウェイモンドとアルファ・ゴンゴンの助けを受け、エヴリンはベーグルへ入るジョブを引き戻します。駐車場では、エヴリンとジョイが抱き合いました。
パーティーの宇宙ではウェイモンドが離婚届を破り、夫婦も関係を結び直しました。
ラストは税務署で、エヴリンが目の前の会話に戻る

後日、一家は書類を整えて税務署へ戻ります。ベッキーが車で送り、エヴリン、ウェイモンド、ジョイ、ゴンゴンが再び監査の手続きに臨みました。
ディアドラが書類について話す間、エヴリンはほかの宇宙の声に気を取られます。それでも、目の前の面談へ意識を戻しました。
考察として、この最後は「いま一緒にいる人の話を聞く」という選択だと受け止めています。父からの承認や華やかな成功より、相手との会話そのものに価値を感じられるようになったのでしょう。
書類を直す仕事まで残っているのが、私は好きです。それを誰とやるかで、同じ用事の重さが変わるんですよね。
鑑賞時の注意は、自分を消したい願いと性的なギャグ
自死願望を連想させる台詞や行動、暴力、性的な小道具を使うギャグがあります。母娘の愛情を描く映画でも、内容にはかなり強い場面が含まれます。体調や気分によっては、一時停止して休める環境のほうが観やすいでしょう。
親が子どもの外見や生き方に口を出し、恋人との関係を受け入れきれない会話も続きます。家族とのやり取りで傷ついた経験があると、宇宙の大騒ぎより、何げないひと言にしんどさを感じるかもしれません。
再鑑賞なら、冒頭のクッキーと目玉シールが面白い
ウェイモンドの優しさを映像で確かめるなら、最初の税務相談でディアドラがクッキーに触れる場面があります。彼が焼いたクッキーに心を動かされ、当日中に書類を整える時間をくれたんです。あの厳しい顔の担当官にも、お菓子を喜ぶ気持ちがあったんですよね。
ウェイモンドが物に貼る、白地に黒い目玉のシールも小さな楽しみです。エヴリンは最初、それを邪魔に感じて剥がします。終盤で自分の額に貼る姿までつながると、夫への理解が言葉と小物の両方で変わっているのがわかります。
象徴の解釈では、黒いベーグルと白い目玉シールの対照も印象的です。あらゆるものを飲み込む輪に対して、くだらない楽しみを身近な物へ足す目玉。大げさな幸福に届く前にも、手の届く楽しさを作れる、と感じます。
作品の案内は日本公式サイトにもあります。もう一度観たくなるのは、派手なジャンプの中で見過ごしがちな、こういう小さなやり取りです。
よくある質問
長い題名には、どんな意味がある?
おおよそ「すべてが、あらゆる場所で、いっぺんに」という意味です。本編も「エブリシング」「エブリウェア」「オール・アット・ワンス」の三部で構成されています。
「エブエブ」は公式でも使う呼び方?
日本公式サイトにも「#エブエブ」の表記があります。長い邦題から生まれた、公式の宣伝でも使われる略称なんです。
母と娘を演じているのは誰?
エヴリン役はミシェル・ヨー、ジョイとジョブ・トゥパキ役はステファニー・スーです。ウェイモンドをキー・ホイ・クァンが演じています。
まとめ
『エブエブ』は、子どもを心配する親の言葉に、自分の期待や都合が混ざる怖さまで見せてくれます。疲れていて、失礼で、しょっちゅう間違えるエヴリンを主人公にしたから、親の側が変わる姿に重みがあるんですよね。
家族のためと言いながら、誰の願いを優先しているのか。あの母娘の会話から残る、ちょっと痛い問いです。ホットドッグの指で大笑いした先に、それを考えさせられる。ずいぶん油断できない映画ですよ!